2016年12月18日日曜日

祭りの起源 ~水田天満宮出現の背景について~

現在、我々が目にするインターネットで水田天満宮について検索を行うと、「社伝によれば1226年(嘉禄2年)後堀河天皇の勅命により菅原道真の後裔で菅原為長によって創建されたという。当地に太宰府天満宮の荘園で菅原氏一族の大鳥居氏が支配する「水田荘」があって、その鎮守であった。旧名は安楽寺所司神人所、老松宮など。太宰府に次ぐ九州第二の天満宮と称する。」(wikipedia)とあります。
しかし、大宰府に左遷され貧困のなか亡くなった道真の末裔が、なぜ荘園を支配できたのか。大宰府天満宮(旧名安楽寺)に対し、なぜ荘園管理の権限が与えられたのか。辺境の地にある水田天満宮が京に位置する朝廷の勅命を受け、なぜ出現したのか。そして、水田天満宮の「祭り」は、なぜ発生したのか。興味は尽きませんでした。
本稿の目的は、伝統文化である稚児風流・千燈明などの「宗教行事・民族芸能」を発生せしめた水田天満宮出現の背景を先人の研究史料等から読み取りそれらを組み合わせ、祭りの起源を考察するものです。
史料を通して解ったのは、大宰府安楽寺※に全ての事象の根源があったということです。※菅原道真を祀る大宰府天満宮が明治5年の廃仏毀釈で神仏混沌の祭典を廃されるまでの呼称(1)
史料には「大宰府安楽寺(以後、安楽寺)は、祭祀の主体が菅原道真という中央貴族でありその政治的失脚者の怨霊を鎮めるために公的な権力でもって草創され、朝廷などの中央集権或いはその出先機関(大宰府)により外護を受けて発展したものです。安楽寺の草創は、延喜元年(901)正月、時の左大臣藤原時平の讒奏(ざんそう:人を陥れるため実際より悪く天皇などに奏上すること。)によって、参議の地位にあった菅原道真が大宰府権師として左遷され、大宰府の配所(罪を得た人が流された土地。)にて、903年亡くなった(当時59歳)ことにより開始されました。」(1)とあります。
「道真の墓所のうえに廟(祖先の霊を祀る所)が建てられ、安楽寺と称したのは、延喜年中(905~922)と考えられます。」(1) 「道真の死後、道真の左遷に関係したと思われる藤原菅根・時平が延喜9年(909)に没し、疾病・旱魃も続き、延喜23年、皇太子が21歳で没すると道真の怨霊の力が喧伝され道真は生前の右大臣に復し、左遷を受けた時の詔書(天皇から渡される辞令)は焼却されました。京で、道真が怨霊化し、その後も凶事が起きるたびにさらに神格化されていくのに応じて安楽寺も発展していきました。」(2)とあります。
また「安楽寺は大宰府(政庁:今でいう出先機関)との結びつきを極めて強く期待され、大宰府によってその存立、発展を計らなければならない寺院だったのですが、十一世紀に入ると自らの力で急速に発展していきました。それを支えたのが大宰府関係の官吏の寄進による寄進地系荘園であり平安末期に至って最大に達しました。数十町から百数十町に及ぶ荘園三十余ケ所、末寺など数か所に及び宇佐八幡宮などとともに九州の荘園領主の双璧にまで発展をみました。」(1)とあります。
 さらに「安楽寺は、草創以来、公的立場として大宰府の協力な援助によって基盤を固めましたが、やがて蓄積された財力・僧兵による武力は十一世紀に入ると自らの発展に向けられ、かつての最大の擁護者-大宰府は最大の干渉者へと一変し、大宰府(朝廷の出先機関)と安楽寺の軋轢(あつれき)は長元九年(1036)恒例の曲水宴の最中に乱闘という形であらわれました。安楽寺が宋人と行っていた薬品取引に関して、外国貿易を取り締まる大宰府権師 実成長官が強権を発動し対立を招いたものとみられています。その後、実成は罷免(ひめん)されてしまい、大宰府(朝廷の出先機関)の干渉に対して、安楽寺はそれらに対抗しうる勢力を有していました。」(1)とその勢いはとどまることを知りませんでした。  菅原道真祭神とする安楽寺は、道真の孫 平忠を初代別当(3)とする僧官組織によって運営されました。安楽寺に下向(4)していた別当は、鎌倉時代中期頃から下向しなくなり、かわって安楽寺に設置されたのが留守別当(5)で、これも菅原氏一族の大鳥居・小鳥居氏がその後も35代任命され続けられました。(6)
 安楽寺という存在が隆盛を誇る時代背景のなか、安楽寺の荘園だった「筑後國水田荘の成立時期は定かではありませんが、建仁元年(1201)の史料には見当たらず、建長二年(1250)の史料にはでてくるのでそれ以前には荘園として成立していたことが判明しています。」(6)
 「水田荘はその後、南北朝時代200町歩余(違う説(6)もある)の荘園であったが、大鳥居信高の水田移住とともに拡張され室町末期には、600町歩におよび、安楽寺寺領のうちでもその経済を支える最も重要な荘園となっていました。」(2)  水田天満宮の出現については、「水田天満宮社伝」や寛文十年(1670)の「久留米藩寺院開基」などにみえる嘉禄二年(1226)創立という記述となっています。それら伝承(本稿冒頭HP参照)に出てくる菅原氏とは、当時大蔵卿・式部大輔・豊前権守を兼ねていた非参議、正三位(7)であった菅原為長と考えられています。
ここで公卿とは、公(大臣)、卿(大・中納言・参議と三位以上の公家)の併称です。道真以降の菅原氏のなかで参議まで官位を昇りつめたのは、道真・為長・長成(為長の息子)の三人だけ(6)であり、この為長の時代、菅原氏と安楽寺が隆盛を極めたことは間違いがなく、その影響力を駆使して安楽寺の重要な荘園であり、菅原氏一族が掌握していた筑後國水田荘へ水田天満宮が造営されたのは真に自然な流れでした。ただ、「史料には明確な記述がない」(6)とのことですので、現在では冒頭のような伝承が伝えられているのみです。
 「その後の安楽寺ですが、荘園制の解体・崩壊という経済的危機に直面し、社寺本来の信仰を広めるというところに立ち戻りました。中世末の動乱期に多くの寺院は滅亡・退転していったなかで安楽寺も多くの寺領(荘園:筆者注)を失い衰退しつつも、なお存続しえたのは、神社としての天満宮が意識されその存在のなかにかつての大宰府文化の継承者としての一面をもっていたためではないか」(1)と思われるとのことです。
「隆盛期の安楽寺において、大宰府官人の保護のもと堂塔が整備され荘園も拡大していくと同時に「曲水宴」「残菊宴」「六庚申」などの年中行事や「神幸祭」「千灯明」などの宗教行事が始められ、行事の始行を通じていえる特色は、それがまさに、宮廷貴族文化の大宰府長官などによる直接移入であり、しかも文芸的色彩の極めて濃厚なものであったことです。そして年中行事は何れも道真が宮廷における年中行事として参加し、詩に賦していたものばかりでありました。」(9)つまり、往時の宮廷文化を色濃く反映した行事が安楽寺に根付いたことにより、いつしか水田天満宮にも文化移入されたということです。いわば宮廷文化の直系というわけです。
 「水田天満宮」は、道真を祀った「神社」であり、大鳥居氏の「下向先」であり、室町初期には、均等名体制(10)がしかれていた「荘園を経営するためのオフィスビル」でもありました。
そういった水田天満宮に対し、菅原一族の思惑や貴族(大宰府)文化への憧憬などを背景に「神幸祭・連歌祭(笠着の連歌)・千燈明・風流・流鏑馬行事」(11)などが行われ大宰府の文化と筑後國の文化等が渾然(こんぜん)となって、現在 水田天満宮で行われている祭事の起源となったと考えます。 
「筑後市史第三巻」には、千灯明祭の紹介がされていて「起源は明らかでないが、伝承によると約七百年前氏子が五穀豊穣を祈って、ほたての貝殻に菜種油を入れた灯明を奉納したのが始まりとされている。」とあります。この記述からすると水田天満宮独自に派生した祭事と読みとれますが、述べてきたとおり、安楽寺よりさまざまな影響を受けていたことを考え合わせないといけないと考えます。
流通が発達していない当時にホタテのような海産物を水田天満宮へ奉納できた氏子とは、
                                 
①大鳥居氏の下向に際して随行してきた氏子(稚児風流の際に裃を付けている人達)
②荘園領主たる大鳥居氏を喜ばせようと精一杯頑張った水田地区の氏子
      
③氏子などではなく大鳥居本人(本来居るべき大宰府への望郷の念にとらえられ氏子に指図して大宰府天満宮の楼門、鳥居、日の出、帆かけの燈明を造らせ競わせた。)などが考えられると筆者は夢想します。
最後に、祭事とは、こういう祭りをするからここは何とかしてくれ、ここは押さえてくれなど人智を超えた力に対する「契約行為」が表現されたものだと考えます。
水田地区の領民たちは、荘園という「租税制度」の軛(くびき)のなかで苦しい暮らしに呻吟(しんぎん)しつつも、祭事のときは自分たちの暮らしが少しでも良くなるよう、人智を超えた力に対し、畏敬の念を持ち五穀豊穣を願い、純朴にひたむきに祭りを執り行い、このときばかりは楽しんだのではないでしょうか。






(1)「大宰府安楽寺の寺官機構について」恵良 宏(宇都宮工専研究報告第6号 昭和42年)。
            
(2) 角川地名辞典。
            
(3) 別当(べっとう):安楽寺の政所の実権を掌握していた役職名のこと。
            
(4) 下向(げこう):都から地方へ行くこと。
            
(5) 留守別当:下向しなくなった別当の代わりにその留守を守る役職名。
            
(6) 筑後市史 第1巻(平成10年)。
            
(7) 建暦元年:1211に叙され待望の公卿の一員に列した。そのとき五十四歳。後に参議。史料は(6)による。
(8)  天神信仰:天神(雷神)に対する信仰のことである。特に菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいう。本来、天神とは国津神に対する天津神のことであったが、道真が死後火雷天神と呼ばれ雷神信仰と結びついたことなどを由来とし、道真の神霊に対する信仰もまた天神信仰と称するようになった。
(9) 「大宰府官人と大宰府天満宮」川添昭二(菅原道真と大宰府天満宮 下巻1975)。
 
(10) 図説 「南筑後の歴史」(2006)大城美知信 監修より 2町程度の名田(名:課税の基礎単位)に均等化して百姓へ割り振り、税収アップなど在地掌握を確実なものにするために採用したシステム。(6)にも同様の記載あり。荘園同様、太閤検地以降は消滅した制度。
            
(11) 記載した祭事は「筑後市神社仏閣調査書」筑後市教育委員会・筑後市郷土史研究会 (昭和43年)による。

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